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社長ブログ

2025.10.15

パナソニックミュージアム見学

10月1日からの港湾関係団体視察(堺泉北港、大阪万博)に合わせ、前日に大阪入り、取引先の社長の勧めと大学野球部同期の誼(よし)みもあって、大阪門真のパナソニックミュージアム(松下幸之助歴史館)を訪れる機会に恵まれた。「経営の神様」として知られる松下幸之助翁の半生を紹介しながら、その思いや考えを「社会の発展」「国の未来」へ繋げていく目的で、かつて本店のあった場所に、当時の趣を再現した建物を復元したものがこの歴史館である。

パナソニックミュージアム正面。左奥が歴史館となっており当時の本社屋を再現している。

エントランスには、幸之助直筆の「道」と題した訓示が飾られている。この歴史館は、幸之助の94年の生涯を一つの「道」とし、その道を7つのフェーズ(礎、創業、命知、苦境、飛躍、打開、経世)に分け、その足跡をたどりながら彼の経営観や人生観を学ぶ流れとなっている。

エントランスに掲げられた「道」。

幸之助は、8人兄弟の末っ子として生を受け、9歳の時に親元を離れて自転車店で丁稚奉公を始めた。この経験を「礎」とし、1918年に「松下電気器具製作所」を「創業」。妻との二人三脚で始めたが、扱ったアタッチメントプラグ、ソケット(二股ソケット)や自転車用ランプなどが売れて業容拡大していった。社員が増え、会社が大きくなるのに伴って組織や規則の整備を行う傍ら、「精神的安心と物質的豊かさが人間には必要で、物資を豊富にかつ廉価に提供することが生産者の使命」と産業人・事業家としての「命知」を知ったという。

パナソニックの社員の方に、熱心に説明をいただいた。

戦後、GHQに占領された日本において、その政策の一つの公職追放により、幸之助もその対象となったが、社員や取引先による嘆願もあり、事業に復帰。この戦争の痛手から再建を目指すに際し、「戦争は人間本来の姿なのか」という疑問を抱き、人間社会の意義について思いを馳せるようになったという。戦時下から降職追放の頃までを「苦境」の時期とした。

その後、アメリカに赴き、その生活水準の高さ、豊かな暮らしを目の当たりにし、今までの自らの視野の狭さを痛感。世界的視点を身に着け視察から帰国した幸之助は、日本における電化の普及をけん引していった(「飛躍」のフェーズ)。

東京五輪を終え、高度経済成長の生きづまりを感じる1960年代後半。「三種の神器」と言われた白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機もある程度普及し、また金融引き締めの影響もあって、販売店の経営悪化が目立ち始めたこの頃、熱海において販売店店主との懇談会を開いた。店頭でなかなか売れないがメーカーの押し売りで販売店の在庫は増える。その需給ギャップに対して幸之助は販売店店主らに頭を下げ謝罪。その上で、不況打開に全力を尽くしていくことを誓った(「打開」、伝説の熱海会談にて)。

1973年に会長職を辞して経営の一線から退いた幸之助は、その後日本という国の未来を志向し、理想的な社会の実現に向けて引き続き奔走することとなった。特に中国との関わりは顕著で、当時の副首席である鄧小平氏から、中国の発展に寄与した人物として賞賛された。政治家を多く輩出する松下政経塾を開塾し、日本の未来のための人財育成に注力し始めたのもこの時期である。まさに「経世」のフェーズであり、幸之助の人生の「道」の最終章に相応しいものであった。

「企業は社会の公器」「事業を通じて社会に貢献する」という経営理念。規模や事業内容等、相異なるものが当然ながら多い一方、創業時期や創業理念「物流を通じて社会に貢献する」など、当社との共通点もあり、深い関心を持って松下幸之助の人としての生き様を学ぶ意義のある時間となった。

このような機会をいただいた関係者の皆さまに感謝します。

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